大阪地方裁判所 昭和43年(わ)3968号 判決
以下は、判例タイムズに掲載された記事をそのまま収録しています。オリジナルの判決文ではありません。
〔判決理由〕(罪となるべき事実)
被告人は大阪市西区九条通り一丁目二〇番地の飲食店ひようたんや(松岡イソエ経営)にホステスとして勤務していた者であるが、かつて内縁関係にあつた戸家寅男(当時四二年)から昭和四三年八月頃より、度々復縁を迫られていたものの、これを断り続けていたことから、右戸家は被告人が当時居住していた同市港区南市岡町一丁目二七番地文化住宅に訪れ、暴力をふるつて肉体関係を迫るようになり、被告人と右戸家との間に、喧嘩・口論が絶えない状態であつたが、昭和四三年一二月二日には同人との関係を絶つという被告人の強固な決意を戸家において了解し、勤め先にも行かない旨約束しておきながら、同年一二月四日午後九時三〇分頃、飲酒酩酊した右戸家が同店を訪れたことから同店奥二畳の間において、口論となり同人から「がたがた文句を言うとぶち殺すぞ」等と怒鳴りつけられ、同人の様子がいつもより荒々しく今夜は本当に殺されるかも知れないと思い逃げ帰ろうとして同店の調理場へ行つて水を飲んだが、逃げ帰つても自宅まで追いかけて来るだろうし、このままでは店にもおれなくなると考え逃げるのを止め、右調理場にあつた刃渡り約一八、五センチの刺身庖丁(昭和四四年押第一一七号の一)を認めるや、同人の先程からの粗暴な言動に恐怖を感じていた被告人は、相手の出方如何によつてはこれを使用して抵抗することも止むを得ないと考え、右庖丁を帯の間にはさみ、同時五〇分頃再び同間に戻り、同人に対し「殺すもんなら殺してみい」と言つたところ、同人は被告人に殴りかからんとして、傍にあつたビールびんに手をかけようとしたので、被告人はこれを制止させるため右庖丁を突きつけたが、同人が「なめたまねしやがる。ぶち殺したる」と怒鳴りながら身を寄せて来たので、被告人は憤激のあまり、死の結果が発生するかもしれないことを予見しながら、あえて右庖丁を同人の右側頸部めがけて突き刺し、右総頸静脈右背椎動脈を切破する刺切創を負わせ、同日午後一一時二二分右の右側頸部刺切創に基く失血により死亡させたものである。
(弁護人の主張に対する判断)
弁護人は本件被告人の所為は正当防衛にあたると主張するので、この点につき判断する。
判示のとおり、被告人の本件犯行直前戸家寅男は眼の前にいる被告人を殴りつける目的でビールびんに手をかけようとしたものであるから、戸家の被告人に対する右行為は一応急迫不正な侵害行為ということができる。そこで被告人の本件行為が、防衛のため止むを得ざるに出たかどうかについて検討する。
前記証拠を総合すると、被告人は昭和四三年五月頃、当時同棲していた中村某と別れた後、それ以前に同棲生活をしたことのある戸家寅男と再び交際をするうち、被告人に対し未練をもつていた戸家から復縁を迫られるようになり、これを断わり続けていたものの、戸家が被告人の勤務先である「ひようたん」に酒に酔つて来て暴れては迷惑をかけ、被告人のアパートに泊り込んで強引に肉体関係を迫り、これを断わると暴言、暴行を働くので、戸家と殴り合いの喧嘩をしたりするようなことを繰返していたが、このような状態が続いたらアパートに居れなくなり、「ひようたん」にも勤められなくなると苦慮し、いつそ引越しをして身をかくし、戸家との関係を絶とうと考え、同年一二月二日朝古道具屋を呼んで家財を売り払おうとしたところ、居合わせた戸家が被告人に全く復縁の意思のないことを知り、それほどまで一緒になる気がないのであれは今後一さい店にもアパートにも来んと言つたので、戸家との関係は解決したものと安心していた。ところが、本件犯行当日である同年一二月四日午後九時三〇分頃被告人の期待に反し、約束を破つて、酔つぱらつた戸家が「ひようたん」を訪れたことから、同店奥二畳の間において、同人と口論となり、判示犯行に及んだことが認められる。
右事実によると、被告人は犯行前一たんはその場から逃げようと考えたが、固い約束に反して飲酒酩酊して「ひようたん」にあらわれた戸家の様子が平素より一段と殺気立つたように思われ、またこれまでの同人の言動等から、このまゝ逃げても事の解決にならないと考え、余りに執拗な戸家の行為に憤激すると共に同人との対決を敢て辞せない決意の下に調理場にあつた庖丁を帯の間に隠し持つて戸家の居る部屋に引き返して来たもので、当時の現場の雰囲気から戸家の加害行為を十分予想し、ことあらばそれを使うつもりで刺身庖丁を準備していたものと認められるうえ、被告人は戸家がビールびんを未だ手中におさめない段階において素早く所携の刺身庖丁を取り出し、戸塚の頸部付近を狙つて突き刺し、右刺身庖丁は右総頸静脈、右背椎動脈を切破して右側頸部を貫通し、9.8センチの刺切創を負わせているのであるから、右行為の状況、凶器の種類及び形状、攻撃の向けられた部位、攻撃力の強度等を考え合わせると被告人に未必の殺意のあつたことを推定しうるのみならず、被告人の司法警察員に対する供述調書、現行犯人逮捕手続書によると被告人は刺身庖丁を突き刺した直後、右側頸部から血が流れているのを見ながら、戸家に向つて、「文句があるならもつと言え。言えるなら言つてみろ」と怒鳴つていること、また、犯行後二〇分程して警察官に現行犯逮捕される際「この男を殺さねば、うちが殺される。だから殺したんだ。日頃うちを殺す殺す言うから、うちが先にやつたんだ」と述べていることが認められるのであつて、被告人の行為が防衛の意思を以て為されたものでないことを推測させるに十分であるといわざるを得ない。以上の点を総合して判断すると被告人は戸家の余りにも執拗な言動に日頃の憤懣を爆発させて、同人に対し積極的に攻撃を加える意思を以て同人の頸部を突き刺したものと認定するのが相当でありこれを防衛行為を以て論ずることはできない。従つて防衛の意思を欠く被告人の所為につき正当防衛は勿論過剰防衛の成立する余地はなく、弁護人の右主張は採用することができない。(原田修 野曾原秀尚 奥田孝)